次太夫堀とは

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次太夫堀は、天領である六郷領(今の大田区の平地部分)の灌漑のために徳川家康の命を受けた稲毛・川崎領(現:神奈川県川崎市)の代官、小泉次大夫により、慶長2年(1597)から15年の歳月をかけて開削された23Kmにおよぶ農業用水「六郷用水」の世田谷領内での呼び名です。

埋め立てられ道路になった部分もありますが、緑道公園として整備されたり、丸子川としてその流れを残しているところも多く、昔の面影を残している道筋です。

狛江の取水口跡から亀甲山を巡り六郷用水と名前を変えるまでの13Km、歴史をたどるジョギングコースをご紹介します。

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その流路は

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狛江の多摩川住宅の西のはずれに小さな水神様が祭られています。そこが次太夫堀の取水口跡です。そこからほぼ多摩川に平行して、途中で野川や仙川、谷戸川の流れや国分寺崖線沿いの湧水を集めて二子玉川、野毛、田園調布へと掘割が作られました。

亀甲山の中腹を縫うように巻き込んで、今の東急多摩川線と平行に沼部からは、いよいよ六郷用水として網の目のように分水され、大田区の平野部を潤していました。

Dscf0995 もともと幕府直轄領の六郷に農業用水を送ることが目的でしたので、完成後100年間ほどは世田谷領内の農民は六郷用水の水を利用することができませんでした。世田谷領内では「六郷用水」とは呼ばすに「次太夫堀」 Dscf1245 と呼ぶのは、単に小泉次太夫の偉業を称えただけではないのではないかと私は感じています。世田谷の農民にとっては水は流れているけれども自分たちが利用できる「用水」ではないのです。単なる掘割だと考えれば、六郷用水とは呼びたくなかったのではないでしょうか。

Dscf0958 このブログでは基本的に亀甲山を巻き込んで東急多摩川線を越えるところまでを「次太夫堀」、そこから先を「六郷用水」と呼ぶことにします。そして、「次太夫堀」のうちで現在も丸子川として水が流れている部分については「丸子川」と表記することもあります。


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取水口

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次太夫堀のスタートは、狛江市元和泉の多摩川です。
Dscf0791 小田急の和泉多摩川駅から多摩川の堤防の上を上流に向かって1Kmほど行くと西河原公園のはずれにモニュメントが立っています。このあたりが次太夫堀の取水口跡です。昔の様子を伝える案内プレートもありますので、1610年の完成当時の姿を想像してください。

Dscf0793_1 公園を回り込むと、水神社が祭られています。ここは元々は狛江の伊豆美神社のあったところで、多摩川の洪水のため現在地に引っ越した後に水神社を祭ったそうです。その後に小泉次太夫の偉業を称え、次太夫も合祀されています。

Dscf0796 この神社の鳥居の前に石のベンチがありますが、よ~く見てください。実は、この石材、取水口の石組みだったそうです。確かに制水板をはめ込む溝がありますよね。

Dscf0802 この水神社の脇のバス通りが次太夫堀のあとになります。ちょっとイメージが湧かないと思いますが、相当大きな用水だったようです。平均して幅・深さともに4.5~5mもあったということですから、2車線道路の幅で大人の背丈の2倍以上の深さがあったことになります。

Dscf0799 バス通りを500mほど狛江駅方面に行った右手に古民家が移築された「むいから民家園」があります。昔の暮らしを偲ぶいろいろなイベントが開催されていますが、ぜひ見ていただきたいのが、ここの土間にある資料です。地元の古老の方から聞き書きした次太夫堀の様子がイラストや解説文によって紹介されています。

Dscf0797 ちなみに、この民家園のあるところの交差点は「田中橋」。今は橋などどこにもなく、初めての人は不思議に思うかもしれませんが、紛れも無く次太夫堀に架かっていた橋の名前です。その証拠に、「田中橋」の親柱が交差点脇の社に保存されています。この先にも「駄倉橋」や「一の橋」「ニの橋」という地名・交差点がありますが、どれも次太夫堀に架かっていた橋にちなみます。

水神社

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世田谷通りとともに

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今はきれいなバス通りとなった次太夫堀は狛江の駅前を通り過ぎ、小田急の高架をくぐり、Dscf0805世田谷通りへと向かいます。途中、狛江の駅前を過ぎたあたりの歩道の植え込みのなか に案内板とともに駄倉橋の親柱が残っています。案内板によると、煉瓦造りのアーチが美しい橋だったみたいです。品川・羽田と府中・青梅をつなぐ筏道の橋ですので交通量は多かったのでしょう。堀は、昭和40年に埋め立てられたということですが、イラストを見てもわかるように、かなり深かったようです。

Dscf0807 小田急の高架にさしかかる手前で、左手から緑道が合流してきます。これが、昔の野川の川筋の跡です。遡っていくと、住宅街のなかをくねくねと緑道が続いて、神代団地のところで今の野川に突き当たります。次太夫堀は、このように昔の野川や仙川などの自然河川の水を集めながら天領である六郷に向かって流れていたのです。

Dscf0812 小田急を抜けてしばらく行くと、世田谷通りの「新一の橋」交差点に突き当たります。ここからしばらくは世田谷通りに沿って流れていました。南側の歩道が北側に比べて少々幅が広いのがわかるでしょうか。少し渋谷寄りにいくと「一の橋」、「ニの橋」と続きます。 

Dscf0810 この交差点の脇には文政六年(1823年)に建てられた石橋供養塔があります。「東六郷江戸道・西登戸府中道・南家村道・北ほりの内高井戸道」と刻まれています。府中道は、品川道、六郷道、とも呼ばれた道です。奥多摩の材木で筏を組んで多摩川を下り品川に運んだ筏師たちが戻るときにつかった道で、「筏道」と呼ばれています。現在、調布の京王線の南に品川通りがありますが、国領の多摩川住宅入り口の交差点のところから旧Dscf0814品川道(筏道)が狛江に向かって延びていて、先ほどの駄倉橋で次太夫堀を越え、狛江三叉路で世田谷通りにぶつかり、一の橋のところから次太夫堀と寄り添ったり離れたりしながら六郷・品川へと続いています。

Dscf0818 狛江市から世田谷区に入る手前で次太夫堀は右手に分かれます。現在は瀧下橋緑道となっています。この緑道は野川までほんの数百mの短いものですが、風情があります。世田谷通りに別れを告げて、緑道に入りましょう。

一の橋

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次太夫堀公園へ

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Dscf0822 瀧下橋は次太夫堀を渡る古道の橋です。ここから喜多見不動を経て成城の台地に続く道ですが、昔はさらに滝坂道につながっていました。今は植え込みのなかに親柱が残るのみです。このあたりは昔の野川の流路を利用して用水が掘られているDscf0834ようでくねくねと曲がっています。ほんの数百m行くと現在の野川にぶつか りますが、この地点で昔の入間川を呑みこんだあと、対岸に排水溝の穴が見えるのでもわかるように、現在の野川の対岸を緩やかに弧を描いて下っていたようです。しかし、その流れのあとは一部が道として分かる程度で現在は判別しません。

Dscf0836_2 野川にぶつかったら、野川のサイクリングロードを野川に沿って走りましょ う。バス通りの多摩堤通りを越えてしばらく行くと右手に次太夫堀公園の入Dscf0837_2 り口があります。この細長い公園こそ次太夫堀の跡に作られた公園です。 古民家が移設され、民家園となっています。今では懐かしい四季折々の伝統行事が行われ、古きDscf0838_1 良き世田谷の農村の風景を彷彿させてくれますが、園内には田んぼや畑もあり、ただ単に古い家を残すのではなく、農耕に根ざす文化そのものも残していこうという取り組みのようです。公園の管理棟にある資料室には昔の野川の流路や流域の様子が展示されています。ご覧になることをオススメします。

Dscf0841_1 小川の流れも再現されていますが、知らない人は次太夫堀はこんなちょろちょろとした小川のようなものだろうと錯覚してしまうでしょう。しかし、とんでもない。幅・深さともに4~5mもある大きな用水だったのです。これから向かう二子玉川あたりの丸子川の風情が最もよく昔の雰囲気を残しているのかもしれません。結構でかい掘割です。


次太夫堀公園

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東名高速をくぐる

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次太夫堀公園を進み、水道道路の下をくぐる地下道を抜けていくと、また野川に出ます。ちょっと下流に進むと、東名高速の高架が見えてきます。以前、この近くに世田谷区の区民農園があり、新婚当初の私たちカルガモ夫婦がジャガイモやトマト、カボチャなどを作っていましたが、今はしゃれたアパートになってしまいました。

Dscf0845 さて、上の写真をよーく見ると新興住宅の境界線がなんか不自然なのが気がつきませんでしょうか。野川が右にゆったりとカーブをきっていますが、その接線上に住宅の境界線がその先の尾根の先端に向かった延びていまDscf0847す。これこそが、昔の次太夫堀の川筋です。

尾根の先端には今でも溝が残っていて、名残をとどめています。柵があり、ちょっと中に入るのはためらわれますが、確かにこの尾根の先端を横切り、東名高速の下をくぐり堀は流れていました。

Dscf0848 かなりひどい藪で、そのまま進むことはできません。いったん多摩堤通りに出てから、東名高速の下をくぐり、少し行ったところのアパートの角を左に曲がります(人と自転車しか通れないくらい細い道です)。突き当たると次太夫堀跡です。

Dscf0849 東名高速の南側にも名残の溝は残っていますが、水もほとんど流れていない単なる溝です。しかし、その下流部分には小公園として次太夫堀の石碑や説明板が設置されています。説明板には昔の風景が紹介されています。確かに時代を感じさせる写真ですが、この一角は寺社も多いことからそんな昔の雰囲気を残している一帯でもあります。

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六郷用水小公園

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水神様~仙川合流

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六郷用水の小公園から用水跡が石畳の緑道になっています。その右手に永安寺が見えてきます。この寺の本尊は千手観音で恵心僧都の作と伝えられています。鎌倉大蔵谷にあった足利氏満が開いた永安寺にちなんで1490年(延徳2年)世田谷大蔵の地に建立されたそうです。樹齢数百年という境内の大銀杏が気持ちのよいの木陰を作ってくれていました。

永安寺の隣の崖上に氷川神社があります。江戸氏が埼玉県大宮市の氷川神社を勧請したものだそうです(氷川様についてはちょっとは詳しいですよ、何ってたって元大宮市民ですので(^-^;) この氷川神社で特筆するべきは、江戸時代のこの近辺の風景を描いた絵馬です。

現物は、世田谷の代官屋敷を保存した郷土資料館(世田谷線「上町」下車)に保管されており、その風景を再現した模型も展示されています。神社の案内板にも精巧な模写が紹介されており、豊かに流れる次太夫堀も描かれていて、じっと見ていると数百年前にタイムスリップしたようです。

Dscf0854 氷川神社を後にして次太夫堀跡を下流に進むと、氷川様が鎮座される尾根を巻くように小川が流れており、水神様Dscf0855を祀る小さな祠があります。明治時代の地図を見ると、この小川が仙川の本流で、この場所で次太夫堀に流れ込んでいました。このように、次太夫堀は野川や仙川などの流れを飲み込んで天領、六郷へと流れていたのです。

Dscf0856_1この先には直線に改修された仙川を 渡る橋があり、水神橋と命名されています。次太夫堀は、この水神橋から浄化された仙川の水をポンプアップして丸子川として流れが復活しています。流れる水の量は違うものの、川幅もほぼ昔の次太夫堀と同じとなり、二子玉川へと国分寺崖線直下を流れていきます。

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大蔵氷川神社

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岡本民家園

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Dscf0859 岡本の丘のふもとを巡るように復活された次太夫堀(丸子川)は流れます。親水公園として整備されており、季節ごとの花が咲き、楽しいランニングコースです。

Dscf2764しばらく行くと、川幅が広がり、花菖蒲が密集しています。ここが岡本民家園です。藁 葺の古民家が移築されており、一昔前の次太夫堀沿いの風景が思い起こされます。ここの民家園はただ単に保存するだけでなく、折々の伝統行事を行いながら地域文化を保存していく取り組みをしています。

Dscf0860 また、園内には湧水を利用した「ほたる園」も作られており。夏にはほたるが舞う姿も見ることができます。その湧水が大きな池を作り、子ども達の格好の遊び場となって、次太夫堀に注いでいます。

Dscf0862 民家園の隣には岡本八幡神社の鎮守の森があります。神社へ直登する階段の男坂、迂回してゆるやかな女坂がありますが、男坂の下にある石灯籠は注目です。ぜひ裏の寄進者名をチェックしてみてください。町内にお住まいの有名なご夫婦の寄進によるものです。

ここから下流は静嘉堂文庫の森が続き、落ち着いた雰囲気です。

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岡本民家園

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谷戸川合流

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丸子川と名前を変えた次太夫堀は静嘉堂文庫下の閑静な住宅街を流れます。木製の遊歩道も心地よい散歩道です(でも、休日は二子玉川へ向かう買い物の自家用車で大混雑、渋滞の列がこの辺りまで続きます)。

Dscf0865 岡本民家園を過ぎて、しばらくすると同じくらいの幅の川が合流します。谷戸川です。この川は希望が丘のほうから流れ出し、祖師谷大蔵の山野小学校の近くを巡り、砧公園の中を流れてここで次太夫堀の用水として取り込まれます。次太夫堀(六郷用水)はこのようにして、野川、入間川、仙川、谷戸川と世田谷を流れる川の水を呑み込みながらその流れを大きくして天領である六郷に向かっていたのです。

砧公園の中を流れる谷戸川はとても世田谷とは思えないような風景を作り出しています。

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谷沢川合流

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二子玉川の大山街道へ

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だんだん二子玉川のショッピングセンターのビルが近づいてきます。NTTのそばで「治太夫橋」という大山街道の橋が架かっています。

Dscf0961 大山街道は矢倉沢往還とも呼ばれ、世田谷から登戸を抜けて柿生、上鶴間から厚木、伊勢原を通り、矢倉沢の関を抜けて足柄峠を越えて沼津で東海道に合流するという道でした。それが二子玉川から溝の口、上鶴間と抜ける枝道ができ、大山信仰が盛んになると三軒茶屋から新町・二子玉川という現在の大山街道になりました。次太夫堀は、ここで最も古い大山街道の道筋、次いで現在の大山街道(R246)、江戸時代の大山街道と3つの大山街道を横切ります。

この治太夫橋を通る道は、大山街道が二子玉川を通るようになった頃からの古い大山街道の道筋で、おしゃれなニコタマとは違う、親しみのある商店街が続いています。安くてうまい呑み屋さんも多い道筋です。

Dscf5150 治太夫橋を通り過ぎると、丸子川は現在の大山街道、国道246号線の下を流れますが、川沿いの道はないので、人は左手に川を渡り、アートトンネルで246をくぐります。ふたたび川沿いをあるいてしばらく行くと東急東横線のガードの下をくぐります。ここも人間は川沿いには進めませんので、ちょっと先を迂回してガードをくぐり、200mほど行くと調布橋で丸子川沿いに戻ります。

Dscf5177 この調布橋の道が、瀬田城が江戸時代に廃城なってからその敷地を通って作られた江戸時代の大山街道です。地元では江戸道と呼ばれています。調布橋を渡ったところの坂道は「行火坂(あんかざか)」と呼ばれています。あまりに急な坂道なので登ると身体が熱くなるということで行火(あんか)ということですが、今の若い人にはわからないでしょうねえ。

Dscf0965 今は、行火坂を下った道は調布橋を渡り、まっすぐに延びていますが、昔は突き当たりになっていたそうです。江戸道は左手に曲がり、20mほど行ったところの丸子川沿いに道標がありますが、ここで右手に鍵の手に折れて多摩川の二子の渡しに向かっています。この道標には「南大山道、左西赤坂道、右東目黒道」と彫られています。
これから先の大山道は、今は大規模再開発のために昔の道筋をたどることは難しくなっています。



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二子玉川から「丸子川」に沿って

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Dscf5198 旧大山道を横切り、次太夫堀は丸子川として南に流れていきます。
大井町線のガードをくぐり、まむし坂の交差点(駒沢通りです)を越え、しばらく行くと上野毛自然公園の森が見えてきます。これが稲荷坂。旧大山道の道標にあった「目黒道」です。上野毛から等々力を経て目黒に通じる道です。

Dscf1225 上の画像のように第三京浜の高架をくくりますが、実はその手前の多摩川寄りには明神池という多摩川の三日月湖的な池が残っていました。いまでも東急のバス停に「明神池前」という名前が残っています。今は小さな祠が残っているだけです。

Dscf5230 さらに進むと善養密寺が左手に現れます。このお寺には世田谷の名木にも選ばれているカヤの木があります。それも見事なのですが、よく分からないいろいろな動物がいます。ランの一休みとしては、一見の価値があります。面白いです。

Dscf0969 田園調布の亀甲山を除けば、次太夫堀がもっとも多摩川に近づくのが、善養密寺の先のところ。その昔の野毛の渡しの地点です。今では、その場所を表す「てくたくマップ」の石碑があるだけです。多摩堤通りに上って、古の光景を思い浮かべてもいいでしょう。

さて、注目すべきはその先にあるコンビニというよりは個人商店的酒屋「池田屋」さん。実はこのお店、歴史が古いんです。奥多摩から筏で下った人たちが帰り道に宿泊する宿を筏宿と言いますが、野毛には幾つか農家の副業で行なっていた筏宿があったようようです。「甚蔵店(ぢんぞう)」と呼ばれていた筏宿がこの池田酒店だそうです。

Dscf0976 これだけ多摩川の近くまで用水を持ってきた理由がこの先にあります。
等々力渓谷を形作った谷沢川が多摩川に合流する地点がここ。地形的に谷沢川のできる限り低い位置でその上を架水橋で通すしかありません。そのぎりぎりの地点がDscf0978 この場所だったのです。これは私の推測ですが、このポイントと亀甲山の山腹を巡るポイントの2点の測量から、六郷用水(次太夫堀)のすべてのグランドデザインが決まったのだと思います。今は残念ながら全ての丸子川の水は谷沢川に落としこまれ、ポンプアップされた水が新たな次太夫堀(丸子川)となって流れていきます。

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根通りを行く

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Dscf5259_2 次太夫堀は丸子川と名を変えて、谷沢川を越え、等々力不動に向かう目黒通りの登り口を横切り、武蔵工業大学(2009年4月から五島系の学校と合併し、東京都市大学と総合大学に衣替え)のキャンパス脇を流れます。

Dscf5262_2 このあたりは「根通り」と言われています。
尾山台の河岸段丘の下部の「根」に沿って続く道という意味です。玉根橋や中根橋、西根橋など橋の名前に注意してみると「根」の字がついています。

Dscf5261_2 しばらくいくと宇佐神社脇の「寮の坂」に続くバス通りを横切ります。この先の籠谷戸(ろうやと)には江戸時代以前は多摩川が大きく蛇行してきており、海からの船がここまで遡り、荷揚げをする港があったそうです。台地の上には奥沢城があり、軍事道路としての重要なポイントだったと思われます。

Dscf1450_2 ちなみに、この右手の多摩川側は、太平洋戦争前までは東京への花卉(カーネーションなど)の生産拠点でたくさんのガラス温室があったことが古い地図からうかがえます。そのため、「温室村」とよばれ、今でもバス停にその名が残っています。

Dscf0982 左手に大きく開けた籠谷戸の谷を見ながら丸子川沿いを走ります。今は瀟洒なお屋敷と田園調布雙葉学園が立つ落ち着いた住宅街です。籠谷戸Dscf1024 の西側を宇佐神社が脇を固めているのに呼応するように、東側には八幡神社が建てられています。この神社もその軍事的な意味合いから古くからの歴史を重ねています。

なお、八幡神社の手前の道を左に登っていくと「急坂」というそそられる名前の坂があります。その名の通り急な坂で、一気登りはかなりツライです。

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難所 亀甲山を巻く

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次太夫堀最大の難所が田園調布の亀甲山。

Dscf0985_2 この辺りまで海水があがってくることもあり、狛江から延々と多摩川の水を国分寺崖線に沿って引っ張ってきた次太夫堀ですが、その行く手を遮るように国分寺崖線が多摩川に突き出ているのがここ。亀甲山の山腹を穿ち、多摩川の水面よりも10m以上も高いところを流しています。次太夫堀、最大の難工事だったことでしょう。(ただし、このあと六郷の里でも難工事が続き、女性を動員して男衆のやる気をださせたという「女堀」という名前まで残っています)。

Dscf0994 Dscf6147今は、さらに多摩堤通りまで通っており、次太夫堀はその半分以上を車道や歩道に覆われています。おまけに谷沢川から汲み上げられて、「根」の湧水を集めてきた流れは田園調布の堰のところですべて多摩川に流れ込まされています。亀甲山の尾根の先、浅間神社の下を巻きこむ次太夫堀はまったくの空堀です。ちょっと残念です。

Dscf0988 多摩堤通りの車の流れに悩まされながらも、ぜひとも亀甲山山腹からの多摩川の景色は見ていただきたいと思います。いかに多摩川の流れと次太夫堀の流れの高度 差があるか。満足な測量機器もない江戸初期に(偉業と称えられる玉川上水よりもはるかに古い時代のことです)、はるか狛江から深さ3.5m×幅3.5mの大きな用水で世Dscf6139 田谷の湧水を集め(世田谷領民とっては奪い取り、でしょうが(^_^;)、自然の川を越え、山腹を穿ち、幕府の財政基盤である天領の六郷へまさしく命の水を供給した六郷用水の成否がここ亀甲山をこの高度で巻き込むことができるかどうかにかかっていたのです。

対岸の川崎側の二ヶ領用水とともに江戸幕府を経済的に支えた六郷用水もいまはその役目を終えて、分断された流れとなっていますが、この先の沼部のように市民の憩いの場となって新たな意味合いを思って今日も流れています。

Dscf6158 ところで、ランナーにとっては最も走るづらく、気分が悪いのが、この亀甲山の部分でした。思い切って山の上に上れば、ちょっとしたトレイル気分と昔の浄水場の雰囲気を生かした湿性植物園Dscf5331 など見所も多いのですが、川治いを走ることはかないませんでした。しかし、「たまリバー50」として多摩川沿いの歩道整備の一環として、今まで立ち入ることのできなかった田園調布の堰のすぐ脇を通り抜ける歩道ができました。車に邪魔されることなく、多摩川の流れとそこに息づく自然を感じられる通路です。

このレポートもいよいよ終着。大田区に入ります。

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いよいよ六郷 田畑を潤します

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Dscf1459 その流れをすべて多摩川に流し込んだ丸子川は空堀となって浅間神社(この神社のサイト、スゴイです)のすそを回りこみます。この浅間神社の境内から眺める多摩川の流れは私がこのあたりで一番好きなポイントです。大きく蛇行する多摩川と丹沢の山々のパノラマが素晴しいです。ぜひ寄り道してみてください。

Dscf0996 東急多摩川線の踏切を渡り、線路に沿って行きます。中原街道の下をくぐるトンネルを抜けると、六郷用水(ここからは次太夫堀や丸子川よりというより六郷用水の方がとおりがいい)が整備された遊歩道として復活します。木々も多く、水の流れとともに日差しの強い夏などはほっとする道です。歴史や流路を紹介する説明板もあります。

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トップの写真にあるような水車のミニチュアも復元されています。本当はもっと大きく、人が水車の「歯」の部分に乗って水車を回して、用水から水を汲み上げたものです。この辺りではまだまだ大きな用水でこの復元された流れとはイメージが違っていたのではないかと思いますが、この下流では六郷用水の流れは人間の毛細血管のように細かく分流され六郷地域の田の隅々までいきわたり、このような風景を作っていたと想像されます。

Dscf1010 沼部駅のそばの東光院の角まで趣のある遊歩道が続きます。東光院のところで横切る道が旧中原街道です。左折して東京方面に向かうと赤い橋がかかる切り通しの登り坂にさしかかります。これが「さくら坂」。福山雅治の歌で有名になりました。切り通しの両側は桜並木で、花の季節は賑わうんでしょうね。

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「 愛と知っていたのに

 春はやってくるのに 

 夢は今も夢のままで ...」


Dscf1013 旧中原街道の交差点を過ぎると復元された流れも細くなりますが、広い歩道の走りやすい道が新幹線のガードから大田区の図書館Dscf1007 に向かって続きます。途中にはこんな湧き水もあります。分流されながら六郷用水の跡は環状八号線を横切り、鵜の木、下丸子と続くのですが、いろいろな分流があるため細かくなります。このサイトでご紹介するのはここまで。これから先の六郷用水については、こちらのサイトをご覧いただければと思います。

京浜河川事務所のサイト

六郷用水物語[アメーバビジョン]

大田区の史跡と歴史 デジカメ散策
こちらのサイトにはたいへんお世話になっています。
素晴しいです。

長い次太夫堀をたどるジョギングコースもこれで一段落。多摩川の「たまリバー50」をたどって帰ってもいいし、東急池上線「御嶽」駅近くには銭湯もありますので、一汗流して帰るというのもいいかもしれません。

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六郷用水 東光院

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(おまけ)六郷用水の行き着く先は...

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六郷の田畑を潤した六郷用水はそのあとどうなるか...

Dscf0968すべての水が灌漑に使われるわけでもありませんし、洪水のときなどは多くの水が用水にも流れ込み、田畑に水害をもたらします。そのような余剰な水を「悪水」と呼びます。別に毒が含まれていたりとか、汚い水というわけではありませんが、始末に困る水ということで悪水と呼んだものと思われます。

次太夫堀も、気をつけて見ていると第三京浜のガード近くや田園調布の八幡神社のそばに悪水を多摩川に逃がすための水門や川筋が残っています。

さらに六郷用水の終着点もいえるのが六郷水門
Dscf1496 ねこ耳、というかバッドマンのマスクのような突起が面白い水門です。
田畑を潤した残りの水を最終的に多摩川に落とし込むところです。洪水のときは多摩川の水が逆流して用水の流域に被害を与えるのを防ぐためにつくられたものです。狛江から延々と天領六郷地区まで続く六郷用水の終着点と書きましたが、メインの流れのひとつの終着点であり、いくつもに分流された六郷用水は蒲田や羽田までほんとうに大田区の隅々まで行き渡っていたのです。

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六郷水門

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